ウァティカヌス聖皇国で太魔範士の称号を授与されたカイトが、ミズガルズ王国へと帰国した二日後の水曜日。
師走を目の前にする十一月二十七日の昼過ぎ、王都プログレの港にセナート帝国の威光を示すように黒光りする装甲板で固められた大型汽船が入港した。 乾いた北風が冬の匂いを運ぶ中、シルビアがミズガルズ王国の地に降り立つ。 年末の賑やかな港にあっても、シルビアが纏う漆黒のラブリュス魔道士団の軍服は異様な迫力を有しており衆目を集めた。 忌避を含んだ視線を集めるシルビアには、人々の視線を気にする様子はまるで無かった。 シルビアを出迎えるために港へと赴いたのは、アルテッツァとセリカの二人だった。 隠せない警戒が表情に垣間見えるセリカとは対照的に、シルビアとアルテッツァは微笑を浮かべて対面した。「お待ちしておりました。遠路のお務め、誠にお疲れ様です」
朗らかな微笑を崩さずに右手を差し出したアルテッツァに対して、シルビアも余裕の笑みを浮かべたまま握手に応じた。
「これはアルテッツァ卿。高名な卿に、わざわざ出迎えいただくとは光栄です」
初対面でも当然のように顔と名前が一致するだけでなく余裕を持って対応をするシルビアに対し、アルテッツァは警戒を強めたが表情に出すようなことはなかった。
「滞在中の用向きは、遠慮なく私に仰ってください」
「それは恐れ入ります。明後日には出立する身ですが、アルテッツァ卿のご厚意に甘えて、お世話になります」 「急ぎの船旅でお疲れでしょう。ホテルへご案内いたします」 「ありがとうございます」微笑を浮かべながらも一切の隙がないシルビアの所作は、魔道士としての実力を暗に示すものだった。
それは並んで前を行くシルビアとアルテッツァの後に続いて歩くセリカにとっては、屈辱的な実力の差を痛感させるものだった。 シルビアはアルテッツァと同等の魔教士の称号を持ち、自分はその一つ下の称号となる魔錬士であるという事実を前にしたセリカは、否応なく襲ってくる劣等感を払いきれなかった。◇ ◇ ◇ ◇ ◇
シルビアがミズガルズ王国へ到着した頃、カイトは自室で次の行き先となるセナート帝国行きに向けた旅の支度をしていた。
「お帰りになったばかりですのに……」
カイトの荷造りを手伝うストーリアが、何度目かになる言葉を口にする。
「だよね」
カイトも何度目かになる短い言葉で返した。
「この世界はカイト様を放っておかないように回っている気さえいたします」
ストーリアが軽い小言のように口にした、思わぬ芯を食った言葉にカイトの手が止まる。
「……そうだね」
「カイト様?」カイトの様子に気付いたストーリアが支度の手を止めて小首を傾げた。
うつむいたまま一点を見つめるカイトは、ストーリアの耳にだけ届くような小さな声で吐露した。「いや……俺もそんな気がしてたんだ。どうも、この世界は俺を放っておいてくれないみたいだってね……おじいさんと父さんに続く聖魔道士という立場、予断を許さない情勢下での首席魔道士への就任、その上、太魔範士なんて大層すぎる称号まで……この世界に来て以来、流されるまま、その場その場で求められる聖人なり魔道士像みたいなものを考えて演じてきたけど……」
床に座って支度していたストーリアが静かに立ち上がり「カイト様……」と呟くように名前を呼びながら、ゆっくりとカイトへ近付く。
ストーリアの気配を近くに感じながらも、カイトは吐露することを止められなかった。「いつか、俺の仮面が剥がれる、いや、剥がされる。その日は必ずくると思う……仮面を剥がされて無価値な自分を晒される。そんな恐さが日に日に強くなっていくんだ……」
うつむくカイトの頭をストーリアがやわらかく抱き寄せる。
やわらかな胸のふくらみと人肌のぬくもりに包まれたカイトが思わず弱音を漏らす。「……俺は、本当は、聖人とか首席魔道士なんて役を演じられる男じゃないんだ……臆病で心配性でずるくて八方美人なだけの……」
「存じ上げております」 「……今も、ストーリアの優しさに甘えてるだけなんだよ」 「存じ上げております」 「俺は、この世界で異質な存在なんだ。治癒魔法だけじゃなく無属性魔法まで……異様な力を持った異質な存在。そんな俺は生きているだけで、この世界を燃やす火種になるんじゃないかって……そんな予感が、するんだ……」 「わたしはカイト様のおそばにおります。どんなことがあっても、どんなことになっても」今だけはストーリアの優しさに甘えてしまおう……そう思ったカイトは世界を認識してしまう目を閉ざすように、ゆっくりとまぶたを閉じた。
ストーリアのやわらかなぬくもりと、やさしく包み込むような鼓動だけにカイトは身を委ねた。その日の夕刻にはシルビアを歓迎するという趣旨で少人数に限った晩餐の席が、ミズガルズ王国の宰相であるセルシオが自ら手配して設けられた。 王族や御三家と呼ばれる有力な貴族、国内外の流通を掌握する大商人などを顧客に持つミズガルズ王国内でも指折りの高級レストランが晩餐の場となった。 総座席数が百五十を越える規模でもミズガルズ王国内屈指のレストランにあって、限られた上得意のみが通される最奥の大きな個室が会場となった晩餐には主催のセルシオと主賓であるシルビアの他に、シルビアの案内役を自ら買って出たアルテッツァとパートナーであるセリカ、セルシオの計らいで招かれたステラ、そしてセナート帝国が主催する祝賀会への案内役としてミズガルズ王国を訪れたシルビアにとっての主たる対象となる首席魔道であるカイトが出席した。 シルビアを歓迎する短い挨拶を述べたセルシオが乾杯の音頭を取り、六人だけが参席する静かな晩餐は始まった。 微かに張りつめた空気の中にあっても、シルビアは余裕を感じさせる微笑みを絶やさなかった。 微笑を操るシルビアの様子に触れたカイトは、覇権国家の代理人としての自覚と自信をシルビアから感じ取った。 三杯目となる赤ワインが注がれたワイングラスを傾けてから、音を立てずにワイングラスをテーブルに置いたシルビアが口を開いた。「良い機会かと思いますので、帝都での祝賀会への招待に応じてくださったゲストについて手短にお伝えしておきましょう」 提案する口調で口にしたシルビアの言葉に対し、真っ先に反応したのはセルシオだった。「それは、ぜひ拝聴したく思います」 セルシオが短く促すのに応じて、シルビアはゆったりとした所作でうなずいてみせてから、カイトを主賓とする祝賀会に参列する魔道士の名を挙げ始めた。「此度の祝賀会に際して、王侯貴族はもとより政治家や資産家といった魔道士以外の有力者は一人も招待しておりません。魔道士のみを招待した祝賀会の席となります。ブリタンニア連合王国メーソンリー魔道士団の首席魔道士であられるヴァルキュリャ・ニューウェイ卿。ゲルマニア帝国アイギス魔道士団の首席魔道士であられるインテンサ・グンペルト卿。アメリクス合衆国ワキンヤン魔道士団の首席魔道士であられるトゥアタラ・シェルビー卿。ビタリ王国トリアイナ魔道士団の首席魔道士であられるウアイラ・ディナスティア卿。ガ
祝賀晩餐会を主催するセナート帝国から主賓であるカイトの案内役としてミズガルズ王国を訪れたシルビアの滞在は、当初の予定通り二泊三日の短さで終わり、十一月二十九日の正午にはカイトとその護衛役を務めるセリカとステラ、そして案内役であるシルビアを乗せたセナート帝国籍の黒光りする汽船は、プログレの港からヴォストークへ向けて出航した。 客船よりも軍艦に近い装甲板で固められた汽船は、セナート帝国が覇権を握った大陸とミズガルズ王国の領土として国を形作る列島との間にある縁海を予定通りに就航し、十一月三十一日の昼過ぎにはヴォストークの港へと入港した。 港湾都市であるヴォストークは、大陸の東端までを領土としたセナート帝国にとっての「極東の玄関口」となったことで急速に発展した都市だった。 地形に恵まれた歴史のある良港と、セナート帝国がその威信をかけて敷設した世界初となる大陸横断鉄道の「東方の始発駅」を擁する交通の要衝であるヴォストークの街は、足早に行き交う人々の活気に満ちていた。 セナート帝国というミズガルズ王国にとって最も警戒すべき仮想敵国でありながら最大の交易国でもある国に降り立ったカイトは「この大陸に父さんがいるのか」という感慨を覚えながら街並みを眺めた。 師走を前にしたヴォストークの街は、これまでにカイトが見た王都プログレやウァティカヌス聖皇国といった異世界の街よりも密度の高い賑わいをみせていた。「活気のある街ですね」 カイトが素直な感想を口にすると、街を案内するシルビアは微笑を浮かべて答えた。「このヴォストークは積極的に開発を進めるセナート帝国の中でも、勢いのある街の代表格です。お気に召しましたか?」「ええ、寒いですが、それに負けない熱気を感じます」 カイトの感想を聞いたシルビアは満更でもないといった表情を隠さなかった。 ヴォストークの中心地となっている大陸横断鉄道の駅前にあるホテルで一泊したカイトら一行は、朝の内にハルバ行きの汽車に乗り込んだ。 異世界テルスでは最新の移動手段である蒸気機関車は、特有の音と匂いを発しながら力強く疾走した。 大陸を疾走する車窓からの眺めは、カイトにとって旅の高揚感を伴うものだった。 夜半には目的地であるハルバに到着したカイトら一行は、駅から最寄りのホテルに宿泊すると、翌朝にはチタ行きの汽車に乗り込んだ。 カイトが想
カイトはミズガルズ王国を出立する前に、祝賀晩餐会のゲストとして招かれた首席魔道士たちの情報は頭に入れていた。 セルシオが自ら用意してカイトに渡した資料には、首席魔道士たちの顔が確認できる写真も添えられていたが、実際に対面したトゥアタラの印象は前もって写真で確認した時に感じた印象とは大きく違うとカイトは思った。 現時点で世界に二十名しか確認されていない魔範士。その二十人目として昨年の冬にワキンヤン魔道士団の第四席次に就任したヴェノム・ヘネシーの就任式典での集合写真に写っていたトゥアタラを見た際には、如何にもエリート軍人らしい威圧的な顔付きの二十四歳だとカイトは感じていた。「これは、トゥアタラ卿……!」 カイトは迷ったが「ここは素直に驚いたほうが自然だ」と判断してトゥアタラに声をかけた。 トゥアタラはカイトの前に立つと右手を差し出した。スムーズで壁を感じさせないフランクな動作だった。 百九十五センチという規格外な高身長でありながら虚勢を張る必要のない強者としてのエルヴァが、高圧的な態度を見せることがないのに似ているとカイトは感じた。「トワゾンドール魔道士団のカイト・アナンです。まさか三英傑のトゥアタラ卿とこんな場所でお目にかかれるとは思いませんでした」 カイトが握手に応じると、トゥアタラは大きく骨張った右手を軽くシェイクさせながら応じた。「いやあ、お会いできて良かった。この大陸に来てからというもの、まあ、退屈してたところでしてね」 屈託のない笑みを浮かべてみせるトゥアタラは、髪型を気にする様子の無い無造作な金髪に、青みがかった灰色の瞳とうっすらと伸びた無精髭とが相まって、所作と外見とで相手に緊張を与えない術を身に着けていた。「退屈、ですか……今はなぜヴァトカに?」「ちょっと早めに来てしまったんですがね、帝都に行ってしまえば高官なり貴族なりの歓待を断れないでしょう。迎賓館だの超が付く高級ホテルだのは、どうも性に合わないんですよ」 内心を打ち明けたようにも、この場で思い付いた口実にも聞こえる理由を答えてトゥアタラは笑った。片眉が下がった独特な笑い方だった。 好感を与える演技が上手い男ということだけは理解したカイトは質問を続けてみた。「俺たちが、いま到着すると知っていたんですか?」「ええ、うちの諜報は無駄に優秀でしてね」 隠さずに自分の背
カイトの護衛役として同席するセリカとステラや、ホスト国であるセナート帝国側の案内役であるシルビアに対してもフランクに接しながら食事を愉しんだ様子のトゥアタラは、翌朝には出立することになっていたカイト一行の予定に合わせて同じ汽車に乗り込んだ。 トゥアタラは自分に随行するアメリクス合衆国の外交官と、魔道士団ではない軍隊の少将であるという軍人、そしてアメリクス合衆国の筆頭魔道士団であるワキンヤン魔道士団の第三席次に就くネメシス・トリオンの三人をカイトに紹介した。 トゥアタラと同い年だというネメシスは、黒い瞳が辛うじて覗くほど細い切れ上がった目が特徴的な中背の青年で丸い銀縁の眼鏡を掛けており、トゥアタラとは対照的に寡黙な男性だった。 意気投合した様子のカイトとトゥアタラは、シルビアやステラを交えてポーカーに興じるなどしながら互いに深い内容には触れない、たわいのない会話を楽しんだ。 カイトらを乗せた汽車は、昼過ぎには最終の目的地となるセナート帝国の帝都であるマスクヴァの中央駅に到着した。 マスクヴァにいくつか存在する駅の中で最大の駅舎を誇る中央駅は、セナート帝国の繁栄を呈するような豪壮な造りをしており、カイトの目には駅舎というより宮殿のように映った。 中央駅の前には豪奢な装飾を施された二頭立ての四輪馬車が四輛待機していた。 カイトの一行は迎賓館へ、トゥアタラの一行はホテルへと行き先が分かれていた。「では、カイト卿。魔王が催す晩餐会で、また」 トゥアタラがリラックスした笑みを浮かべながら右手を差し出すと、カイトも笑顔でもって握手に応じた。「晩餐会の前に、トゥアタラ卿と話せて良かったです」「さてさて、列強の首席魔道士が一堂に会する席で、ホストのどんな趣向が待ち構えているやら……」「ええ、大帝のもてなしってやつを味わってみるとしましょう」 カイトとトゥアタラは互いに笑顔のまま別れた。 馬車へと乗り込んだトゥアタラは、馬車が発進すると同時にカイトの前では一切見せなかった真顔となった。「ネメシス、おまえの目にはどう映った?」 トゥアタラの向かいに座ったネメシスは銀縁の眼鏡を右手の中指でくいっと上げてから、端的なトゥアタラの問いに応じた。 「不安を押し殺す術は身に着けているようですが、皇帝シーマの対抗馬としては幼いという印象を受けました」「確かに
ホスト国の案内役としてセナート帝国の帝都までの旅程を共にしたシルビアと別れたカイトは、護衛というより旅の道連れといった感じになりつつあるセリカとステラの二人と一緒に迎賓館の中にある食堂で夕食を済ませた。 食事を終えたカイトは「たまには一人の時間も」と、安全であろう迎賓館からは出ないという約束も付け加えてセリカとステラから了承を得た。 カイトが迎賓館内のラウンジにあるバーのカウンターで独りの時間を愉しんでいると、背後から一人の女性が声をかけてきた。「わたしも、ご一緒してよろしいですか?」 その声に振り返ったカイトは声の主である女性の顔を見て驚いたが、すぐに表情を微笑に変えて立ち上がった。「ヴァルキュリャ卿ですね。はじめまして。カイト・アナンと申します」 カイトが右手を差し出して握手を求めると、ほぼ同じ身長でカイトと目線の高さが近いヴァルキュリャは朗らかな笑みで握手に応じた。「早くお目にかかりたいと思っていたカイト卿が「一人でバーにいる」と聞いたので「もう行っちゃえ!」って感じで、来ちゃいました。ヴァルキュリャ・ニューウェイです」 快活な口調で「監視の対象であるカイトが一人になったタイミングを狙った」ことを打ち明けたヴァルキュリャに対して、カイトは潔い人柄の女性という印象を持った。「それは光栄です。よろしければ、どうぞ」 カイトが隣の席を勧めると、ヴァルキュリャは「ありがとうございます」と素直に応じてカウンターのスツールに腰掛けた。 ヴァルキュリャは漆黒の軍服姿だったが、魔道士として軍服を着用する際には常に羽織るのが作法とされるマントは身に着けていなかった。 マントに大きく刺繍されるエンブレムと席次を示す数字は無いものの、その左胸には山吹色で刺繍されたコンパスのエンブレムと「Ⅰ」の数字が見える。 七つの海を制するとも称される海洋覇権国家・ブリタンニア連合王国の筆頭魔道士団であるメーソンリー魔道士団の首席魔道士を二十一歳の若さで務めるヴァルキュリャの威光を、左胸に小さく刺繍された「Ⅰ」の数字が示していた。「同じものでよろしいですか?」 カイトがワインのボトルを手に取りながら訊くと、ヴァルキュリャは「ええ」と笑顔のままうなずいた。 初老のバーテンダーが素速くも音は立てない所作で用意した新しいワイングラスにカイトがワインを注ぎ入れる。 ヴ
翌日の早朝、カイトが宿泊する寝室を一通の封筒を手にした迎賓館の職員が訪れた。「朝の早い時間に申し訳ございません。至急の封書と思われましたので、失礼を押してお届けにあがりました」 寝間着のまま応じたカイトに対し、壮齢の落ち着いた男性職員は深々と頭を下げてから用件を続けて口にした。「閣下へ宛てた封書の署名は、ダイキ卿となっております」 男性職員の伝えた名前にカイトは目を丸くした。「父さ……ダイキ卿からの手紙ですか。分かりました。ありがとうございます」 一気に目が覚めたカイトは、男性職員への礼を添えながら薄い封筒を受け取った。 深い会釈を残して男性職員が去ると、ドアを閉めて一度深呼吸をしたカイトは、ホテルの客室に近い造りとなっている寝室に備え付けられた小振りな文机の上にあったペーパーナイフで封書の封を切った。 封筒の封蝋に捺されたシーリングスタンプの紋章がセナート帝国の筆頭魔道士団である、ラブリュス魔道士団のシンボルとして用いられる「両刃斧」であることに気付いたカイトは一瞬だけ手を止めたが「今は中身が先だ」と、封を切った封筒から一枚だけの便箋を取り出した。〈手紙で悪い。おまえにとっては実の父親ってことになる大樹だ。ただ、五歳の時にいなくなった男を父親だと思えなんて言う気はない。それと、すまんが今回の面会の申し出は断った。俺はミズガルズに戻る気がない。まあ、その理由は次の機会に会ったときにでも。俺は今この世界を愉しんでる。おまえもどうせ来たんなら、この世界を愉しめ〉 頭語と結語といった手紙の書式は無視して、口語のままの日本語で走り書きされた短い文面をすぐに読み終えたカイトは、しばらく父親が記した「おまえ」という字を眺めた。 何の迷いもなく走り書きしたようにしか見えない筆致の文面から、父親の本意を読み取ろうとしても徒労に終わると判断したカイトは、一枚だけの便箋を折りたたんで封筒に戻した。 先日の夕食が済んだ際にセリカとステラの二人と打ち合わせていた予定の通りに行動することで、カイトは落ち着きを取り戻そうとした。 迎賓館の中にある大きな食堂で約束の午前8時半に落ち合ったカイトとセリカ、ステラの三人は一緒に軽い朝食を済ませると、世界でも指折りの大都市であるセナート帝国の帝都・マスクヴァを散策するために迎賓館を出た。 迎賓館の職員が馬車を手配しようと
四歳で魔道顕現発達を終えた時点での類を見ない魔力量を見込まれて、名家として知られたアルティベリス家へ養子として入った孤児という出自でありながら、グロリアやフーガといった同世代の優秀な魔道士を纏め上げ、二十四歳で帝位を簒奪すると大国ではなかったセナート帝国を大陸で覇権を握る大帝国にまで拡大させた皇帝シーマが主催する晩餐会の当日。 十二月十日の帝都マスクヴァは厚い雲に空を覆われていた。 夕刻には祝賀晩餐会の開始に合わせて、迎賓館の車寄せへとゲストを乗せた煌びやかな馬車が続々と乗り入れた。 ゲストであるトゥアタラとヴァルキュリャ、ゲルマニア帝国の首席魔道士であるインテンサ、ガリア共和国の首席魔道士シロン、ビタリ王国で首席魔道士となって一年ほどと他のゲストに比べて日の浅いウアイラの五名は、各々がお付きを付けずに単身で会場入りした。 祝賀晩餐会の会場は迎賓館の中央に位置する大階段の先にある「暁日の間」だった。 大きな円卓が広い会場の中央に一卓だけ設置されているという、晩餐会としては異例なセッティングがなされていた。 五名のゲストが静かに席に着いた頃合いで、ひときわ豪奢な四頭立ての四輪馬車が迎賓館の車寄せへと入った。 四頭立ての皇帝御用車から、今宵の祝賀晩餐会を主催するシーマがゆっくりと降りる。 百九十三センチの長身で細身のシーマは、死人のように蒼白い肌と腰まで伸びた銀髪を持ち、切れ長な目に光を帯びる瞳の色はスミレ色をしていた。 歳を重ねることを拒絶したかのように四十四歳という実年齢にそぐわない若々しさを保つシーマは、周りを威圧する必要のない圧倒的な強者の余裕を纏っていた。 魔王とも称される皇帝にして太魔範士のシーマが会場である暁日の間に入っても、会場の空気が張りつめるようなことはなかった。 晩餐会と呼ぶには少なすぎる五名のみのゲストたちは一様に落ち着きを保っていた。 シーマが席に着くと、迎賓館のスタッフが隣室で待機していたカイトを会場へと呼び込んだ。 主賓であるカイトが会場へ入ると真っ先にシーマが立ち上がってみせ、拍手でもってカイトを迎えた。 五名のゲストもシーマに倣い、その場で立ち上がって拍手をもってカイトを迎えた。 緊張しながらも「ゆっくり、とにかくゆっくり」と胸のうちで唱えながら静かに席へ着いたカイトに合わせて、ゲストの五名も席に座り直
返答に窮するカイトへ助け船を出したのは、乾杯を済ませた後は表情を動かすこともなく寡黙に料理を口へ運ぶだけに専念していたインテンサだった。「シーマ陛下。戯れは、その程度になさるがよろしいでしょう」 インテンサの良く通るバリトンボイスがシーマに向けられるが、シーマの微笑が崩れることはなかった。「インテンサ卿。卿には戯れに聞こえたかもしれんが、ヴァルキュリャ卿とトゥアタラ卿にとってはそうでもないようだ」「であるなら実に嘆かわしい。我ら魔道士から忠誠を除いてしまえば、残るのは暴力のみ」「そんなに悲しい存在かね、魔道士とは」 微笑を浮かべたままのシーマが問いを向けると、インテンサは毅然たる態度ですぐさま答えた。「如何にも。魔道士とは悲しい存在であるが故に、その忠誠は輝くのです」 断言してみせるインテンサの、ロマンスグレーな魅力を放つ壮年の揺るがぬ態度にカイトは見惚れた。 シーマがゆったりとしたうなずきをインテンサに返してから会話を続ける。「流石はゲルマニア帝国の屋台骨を二百年に渡って支え続ける、グンペルト家の現当主たるインテンサ卿の言葉だ。卿の信念は実に素晴らしい。だが、魔道士はその歪んだ呪縛から解き放たれるべき時を迎えている。今のテルスには悲しいことに卿の信念に見合う国が存在しないからだ」 シーマの物言いにインテンサはすぐさま反論した。「それは異な事を仰る。では、セナート帝国は如何に」「このセナートも例外ではない。未だ途上だ。余が帝位に就いたのは準備に過ぎない」「準備……? 何を準備しておられる?」「魔道士を解放するための準備だ。我らは生体兵器などという穢らわしく悍ましい存在では決して無い」 シーマが口にした「解放」という言葉に反応して、ウアイラの紅い瞳には鈍い光が宿り、シロンはゆっくりとまぶたを閉じた。 強い言葉だと思ったカイトは、同時に強すぎる言葉だとも感じた。 シーマは微笑を浮かべたまま言葉を続けた。「そう遠くはない未来、魔道士に取って代わる兵器が誕生するだろう。そうなれば国防を担う魔道士団という仕組みは瓦解し、魔道士は全権代理人という立場を失う。残るのは魔道士への忌諱のみ。魔道士は暗黒時代の魔女のように狩りの対象となる。カイト卿、卿は余の言葉を的外れだと思うかね」 シーマに見解を求められたカイトは「ここは正直に答えるしかな
ヒンドゥスターン王国内では精鋭とされる魔錬士として、十二名から成る筆頭魔道士団の席次に就いていたフリードとビートを、圧倒的な力量差であっさりと処理したアリアは顔色ひとつ変えることなく、ベルゼブブを召喚したままでツカツカと街の中心部に向かって歩き続けた。 アリアの軽快な足取りに合わせて、リラックスした表情を浮かべるヴァイオレットとシルビア、鋭い視線で周囲を警戒する第十四席のギャランが後に続いた。 ベンガラに暮らす住民たちは既に建物の中に引き籠もっており、無人となった街には警鐘だけが鳴り響いていた。 アリアは街の中心に位置する、大きな噴水のある広場で足を止めた。「さて、と。ここで待とっか。人の姿は見えないけど警鐘は鳴ってることだし、あっちから来てくれるでしょ。暑くてもう、歩く気しないしさ」 アリアが軽い口調のまま待機を指示した数分後。 噴水のある広場からほど近いベンガラの役場に詰めていた、メーソンリー魔道士団の軍服を着た壮年の魔道士が二人と、アパラージタ魔道士団の軍服を着た若い女性魔道士が広場に駆けつけた。 緊迫した様子で近付いてくる三人の姿を見たアリアは待ちくたびれた口調で「やっと来た」と呟きながら、呑気なあくびを漏らしてみせた。 背恰好の似た壮年である二人の魔道士は、アリアが召喚しているベルゼブブを目視すると顔を見合わせ、うなずき合うと同時に揃って召喚獣の名を喚んだ。「「タロース!」」 二人の重なった詠唱に応じて出現した、二つの直径二メートルほどで緑色に発光する魔法陣から、全身が青銅色の装甲で覆われた身長三メートルほどの人型をした二体のタロースが姿を現わす。 二体のタロースを見たアリアは、退屈であることを隠さず口にした。「ベルゼブブに対して耐刃性能に優れるタロースを選んだ、ってことなんだろうけど……まあ、土の属性魔法を使う魔道士として間違ってないだけで、平凡すぎるよね」 壮年の魔道士の一人が、泰然とした様子のアリアに奇妙な違和感を覚えながらも声を張り上げた。「ラブリュス魔道士団が、ベンガラの地に何用だ!」 切迫が声に現れている壮年の魔道士とは対照的に、アリアがくつろいだ口調のまま答える。「えーと、アルナージ卿かな? それともカマルグ卿? まあ、どっちでもいいんだけど。セナート帝国はね、今朝、ヒンドゥスターン王国に宣戦布告したんだよ
「宣戦布告も済ませた戦争で、この戦い方が国際法ギリギリなのは承知してるけど。面白くなさそうだったし、まあ、お互い最低限の口上は済ませてたし、ってことで。遅いんだもん。召喚前に「ちくしょう」とか言ってるようじゃ問題外だね」 アリアは吐き捨てるように呟くと、ベルゼブブを召喚したまま軽い足取りで歩き出した。 ラブリュス魔道士団に籍を置く三名が無言でアリアの後に続く。 けたたましい警鐘が鳴り響く中、アリアがベンガラの中心区画に足を踏み入れたタイミングで「クッレレ・ウェンティー!」と風の属性で基本となる魔法を詠唱する少年の声が、アリアたちの耳に届いた。 自身の速度を強化するクッレレ・ウェンティーによって高速で駆ける少年が、アリアに向かって一直線に接近する。 アパラージタ魔道士団の軍服を身に纏う少年の、左肩でたなびくマントに標されたナンバーはⅫだった。「シーカ・ウェンティー!」 少年は駆ける足を止めること無く詠唱を済ませ、風の力で成形された短剣を右手に現出させる。「ラーミナ・ウェンティー!」 少年は立て続けに風の属性魔法を詠唱するのに合わせて、アリアを指すように左手を突き出した。 風の力を刃状に成形して射出するラーミナ・ウェンティーを行使した少年の、左手から撃ち出された風の刃が回転しながら高速でアリアに迫る。 アリアは何ら反応することなく、歩く足を止めることさえしなかった。 平然と歩き続けるアリアに代わって動いたのはベルゼブブだった。 互いに近付いているアリアと少年との間に瞬間的に割って入ったベルゼブブは、脚の先に発生させた風の刃で少年が放った風の刃を難無く叩き落とした。「チッ……!」 舌打ちした少年は、右手に握っているシーカ・ウェンティーによって現出させた風の短剣を投擲した。 ベルゼブブが短剣を叩き落とす隙に、少年がアリアとベルゼブブから距離を取る。「うん。まあ、なかなかと言っていい動きかな? キミ、名前は?」 アリアが戦闘の緊張を欠片も含まない口調で、少年の魔道士に声をかけた。 少年はベルゼブブから目を離さずに答えた。「ビート……アパラージタ魔道士団、第十二席次のビート・ハセックだ!」「ふーん。ボクはアリアだよ。で、ビート卿。称号はお持ち?」「……魔錬士、だ」 ビートがベルゼブブを警戒しながらも素直に答える。「そっかあ……そ
海洋帝国ブリタンニアを始めとする西方の列強四国において国威の象徴であり国防の要でもある四名の首席魔道士たちと席を並べ、東方の島国であるミズガルズ王国の立ち位置を列強各国と肩を並べる位置まで引き上げようと、カイトが慣れない政治的な立ち回りを演じる舞台となったウァティカヌス聖皇国で、五国間の軍事同盟に関する同意を首席魔道士同士で確認した会談から六日後となる三月二十四日。 週が明けた月曜日の朝に、セナート帝国はヒンドゥスターン王国に対して宣戦布告した。 早朝に布告された宣戦と同時に、セナート帝国の筆頭魔道士団であるラブリュス魔道士団の魔道士六名が動いた。 セナート帝国で南方を担当する第六魔道士団の魔道士十二名と、支援部隊として帯同する五十名の一般兵で編成された小隊を従えた、六名の魔道士を乗せた黒光りする装甲板に覆われた汽船は、ヒンドゥスターン王国の重要拠点となっているベンガラの南東に位置する港湾都市チッタゴンを強行突破した。 チッタゴンにはヒンドゥスターン王国及び、ヒンドゥスターンを間接統治するブリタンニア連合王国の筆頭魔道士団に属する魔道士は配備されておらず、魔道士を相手に抵抗する術を持たないチッタゴンの防衛に当たっていた一般の兵士たちは、六名の内の一人である第十八席次のシルエイティの召喚したヒュドラが先導する汽船に対して交戦の意思すら見せなかった。 セナート帝国の汽船は難無く河川を北上し、昼前にはヒンドゥスターン王国とセナート帝国が双方ともに重要視する都市であるベンガラの河川港へと入港した。 河川港に降り立った魔道士たちのマントに標されたナンバーは、Ⅵ、Ⅷ、Ⅸ、ⅩⅣ、XVIII、XIX。 桟橋へと降り立つなり、第九席次に就き南方元帥と称されるアリアがぼやいた。「もうさ、すでに帰りたくなってるんだけどボク。暑すぎるよ。せめてさあ……このジメジメだけでも、どうにかならないかな。湿度高すぎでしょ、まだ三月だよ?」 開けっぴろげにぼやくアリアに対し、第八席次でありながらアリアの副官を兼ね、常に行動を共にしているヴァイオレットが宥めるように声をかけた。「本当に暑いね。夏仕様でも真っ黒なままの軍服で来るような土地じゃない。さっさとベンガラを落として涼むしかないよ」 ヴァイオレットへ無邪気にもみえる笑みを向けて「うん。そうしよ」とうなずいたアリアは、続けて
クーリアが前祝いと言い表した酒宴は、港町でもあるウァティカヌス聖皇国の玄関口として機能するスペツィア港から程近い、庶民的な酒場を貸し切って行われた。 ブリタンニア連合王国を始めとする西方の列強四国と、東方で独立を維持し続けた魔法国家ミズガルズ王国が軍事同盟を結ぶという事態は、既に類を見ない大陸覇権国家として海洋帝国ブリタンニアに比肩する国力を擁していながら、ロムニア王国を併合し更なる勢力拡大の動きをみせたセナート帝国に対抗する大勢力が形成されることを意味する。 世界の対立軸と成り得る軍事同盟について、各国の国防を担う首席魔道士が同意に至った会談の直後という重大な局面とは無縁の、軽い談笑を交わすシロンとクーリアの明るい笑い声が酒宴の空気を担っていた。 ともに酒豪であるシロンとクーリアが、ざっくばらんに語らいながら豪快に杯を重ね続けるのとは対照的に、インテンサとドゥカティは静かに杯を酌み交わしていた。 カイトはヴァルキュリャと差し向かってワインを傾けた。「ブリタンニアにとって今一番の気掛りは、やっぱりヒンドゥスターン王国、ということになるんですか?」 カイトの素直な問いに対し、ヴァルキュリャは微笑を浮かべたまま答えた。「そうですね。ヒンドゥスターンはセナート帝国が掌握したアフラシア大陸に残った最後のくさびと言ってもいい国ですから。セナート帝国との国境がヒマアーラヤ山脈によって護られたっていう要因が大きかったんですけど」「それでもセナート帝国が攻めるとしたら、どのルートになりますか?」「地続きに攻め込まれるとすれば北東のベンガラ、海から攻めるなら王都デリイへの最短ルートとなるドーラヴィーラが考えられます。なので、ベンガラにはメーソンリーの魔道士二名と、ヒンドゥスターンの筆頭魔道士団であるアパラージタ魔道士団の魔道士が数名、常駐してます」「東南エイジアは、ほぼブリタンニア領でしたよね」「ええ、実を言えば我が国は、そちらの方こそを警戒しているんですよ。その証拠にセナート帝国との国境があるマライ半島には、メーソンリーから四名の魔道士を派遣しています」「四名はすごいですね」 素直に驚いてみせるカイトの反応を見て、ヴァルキュリャが微苦笑を浮かべる。「東南エイジアには他にもメーソンリーから三名の魔道士を派遣しています。それに加えて第七と第八魔道士団を合
三月十八日の午前中に、シロンを乗せた蒸気自動車は検問の無いウァティカヌス聖皇国の国境を越えた。 ガリア共和国の筆頭魔道士団であるシャノワール魔道士団の首席魔道士として、国威を担う要職に就くシロンの聖皇国行きに随行した魔道士は一名のみだった。 シロンと揃いの山吹色の地に黒の糸で刺繍が施されたシャノワール魔道士団の軍服を着た、がっしりとした大柄の男性魔道士は小振りな車窓から望む聖皇国の景色を無言で眺め続けていた。黒猫のエンブレムが刺繍された左胸に標されたナンバーはⅫ。 充実した三十六歳の精悍な顔つきをした第十二席次の男性魔道士と書類を確認するシロンは、移動の退屈をたわい無い会話でつなぐでもなく共に無言だったが、互いに静かな時間を好む性分であることを知る者同士での移動はシロンにとっては快適なものだった。「周到を良しとするシロン卿でも、今回ばかりは懸念が残りますか?」 男性魔道士が落ち着いた口調でシロンへの問いを口にした。 好みに合う艶のあるバリトンの声に、シロンは微かな笑みを浮かべて応じた。「まあ普通に考えれば、懸念だらけですよね。革命後の共和制やら帝政やらを生き延びた貴族が集まれば「復讐」の対象として口上にあげるゲルマニアと、利害の一致があるときだけ互いを利用しあうようになったブリタンニアを同時に口説くんですから。こちらも誠意を示す必要はある。そのせいでゼンヴォ卿、孤高の切り札である卿に無理なお願いをする形になってしまいましたしね」 シロンの口調はその言葉に反して、楽観的な響きを含むものだった。 「孤高の切り札、ときましたか。俺の境遇もシロン卿にかかれば格好が付いてしまう。外人として扱いづらい俺でも、卿の役に立てるんなら本望ですよ」「ありがとうございます」 シロンの微笑みに満足したゼンヴォは車窓へと視線を戻した。 ゼンヴォに合わせて、再び膝に載せた書面へ目を落としたシロンは「小心を飼い馴らせているか」と胸の内で自問した。 世界に二十人しか確認されていない魔範士として祖国のために働き続け、いつしか「魔道士の模範」などと称されるようになっても、英魔範士や太魔範士が居並ぶ列強の首席魔道士の中で魔範士である自分に「失策」は許されない。 周到を良しとするのではなく、周到でなければ動けない。自分が抱えるこの小心は「武器になる」と言い聞かせてきたシロ
セナート帝国によるロムニア王国の併合を受け、ビタリ王国へ魔道士を派遣するブリタンニア連合王国、ゲルマニア帝国、ミズガルズ王国の三国とビタリ王国の四国間による軍事同盟の締結に向けて動くことを、首席魔道士であるカイト、ヴァルキュリャ、インテンサが確認した会談の翌日。 三月十六日の昼前に、レビンとステラが予定通りに聖皇国へと到着した。 カイトは一人で船着き場まで赴き、呼び寄せる形となった二人を出迎えた。 降り立ったレビンの黒髪とステラの亜麻色の髪が、近付く春のやわらかさを含み始めた日差しを浴びて輝いていた。 カイトは純白のトワゾンドール魔道士団の軍服を身に纏う二人のもとへ駆け寄った。「遠路、お疲れ様です」 カイトがレビンに向けて右手を差し出すと、レビンは微かに硬い表情のまま「出迎え、感謝します」とだけ答えて握手に応じた。 レビンと短い握手を交わしたカイトは、続けてステラに向けて右手を差し出した。「長い船旅でお疲れでしょう。ホテルに案内します」「ありがとうございます。カイト卿、少し痩せましたか?」 ステラはやわらかな笑みを浮かべながら握手に応じた。 カイトは港からほど近いホテルへ二人を案内すると、その流れの中で昼食に二人を誘った。 二人の荷物を船の乗組員が客室へと運び込むのを見届けた三人は、連れ立ってホテルの近くにあるレストランへと移動した。 一通りの料理を注文し、白ワインでの乾杯を済ませると、カイトがレビンとステラに向けて頭を下げてみせた。「お二人には、急な赴任を引き受けていただきました。そのお礼を、まず先に伝えたかったんです」 頭を下げながら礼を述べるカイトに対し、レビンが静かに応じる。「礼には及びません。任務ですから」 レビンが端的に答えると、ステラがカイトへの質問を口にした。「カイト卿、わたしたちの赴任先は、もう決まっているんですか?」「はい。ビタリ王国の王都、ロームルスになります」「ロームルスには他の筆頭魔道士団の魔道士も?」「はい。すでにブリタンニアのメーソンリー魔道士団から派遣された二名が駐屯しています」 カイトの答えを聞いたステラとレビンが短く顔を見合わせる。 向き直ってカイトへの疑問を口にしたのはレビンだった。「カイト卿。アルテッツァ卿とセリカ卿、そしてピリカ卿は、これからどうなさるご予定ですか?」「当
セナート帝国によるロムニア王国への侵攻を指揮したのは、ラブリュス魔道士団の第三席次として長く西方戦線を預かり、西方元帥として知られるフーガだった。 他の筆頭魔道士団とは異なり、第三席次をエースナンバーとして運用しないラブリュス魔道士団におけるフーガの地位は大元帥に相当し、北方元帥のセドリック、東方元帥のティーダ、南方元帥のアリアから成る四元帥の中で一段上位にあり、皇帝シーマの右腕として内政と諜報を掌握する第二席次のグロリアに同格とされていた。 急速に勢力を拡大したセナート帝国にあって、最も軍功を挙げた魔道士であるフーガが率いるラブリュス魔道士団に籍を置く七名の魔道士と、西方戦線に配備された第三魔道士団の魔道士、魔道士団の後方支援に徹する二千人規模の一般兵で編成された部隊は、攻め落とした都市に留まることなく進撃を続け、三月九日にはロムニア王国の王都を陥落させたる。 筆頭魔道士団を失ったロムニア王国の国王は同日、無条件での降伏を自ら申し出た。 新聞各紙は『火の七日』という大見出しで、一つの国を短期間で飲み込んだセナート帝国の烈火の如き侵攻を報じた。 セナート帝国はロムニア王国の領土を手にしたことで、短い国境線ではあるもののゲルマニア帝国およびビタリ王国と国境を接することとなった。 さらに地中海に面する港も手中に収めたことで、地中海からオルハン帝国とビタリ王国、そしてガリア共和国へも直接繋がる海路を獲得するという戦果を得たフーガの戦勝スピーチが新聞各紙の紙面を飾った。「セナート帝国は国を征しても、文化を奪い民を辱めることはしない。その証人として民の生活が安らぎ、その顔に笑みが戻るまで、私はこの地に残る」 産業革命の流れに乗り遅れたことで列強に及ぶ国力を有するには至らなかったが、決して小国ではないロムニア王国への侵攻を一週間で完遂するという衝撃の報を受けて、ビタリ王国に滞在していたヴァルキュリャとインテンサ、そしてカイトの三国を代表する首席魔道士は、セナート帝国の次なる動きを警戒して本国への帰還を先延ばしせざるを得なかった。 ビタリ王国を再建するためのキーパーソンとなっていた首席魔道士である三名は、セナート帝国の動向に即応するためゲルマニア帝国とガリア共和国に近いウァティカヌス聖皇国へと移動し、到着した三月十五日には最初の会談を持った。 聖皇の宮殿で
産業革命や列強による植民地争奪といった地球の十九世紀末と酷似した時代背景を持ちながらも「魔法」が実際の力として実在し、その魔法を行使する「魔道士」が存在するという最大の違いによって、地球の同時期との相違が最も大きく表れることとなった軍隊の有り様。 列強とされる国家が数百万人、覇権国家に至っては一千万人をも超える軍人を擁していた大戦前夜の地球とは異なり、魔道士によって編成される魔道士団が軍の主体を担い、戦場において国家の意思を代行する全権代理人としての資格を有する魔道士で構成される筆頭魔道士団が国防の象徴であり本体として機能する異世界テルス。 筆頭魔道士団を失うという国体の維持そのものを揺るがす事態に直面したビタリ王国の要請に応える形で、ブリタンニア連合王国、ゲルマニア帝国、ミズガルズ王国の三国から筆頭魔道士団に籍を置く魔道士を派遣するという四国間の同盟へと繋がる協議が持たれた十一日後。 二月二十四日にウァティカヌス聖皇国の使者が、セナート帝国の帝都マスクヴァへと到着した。 聖皇国の使者は聖皇フィデスの意向として、首席魔道士であったウアイラ以下、筆頭魔道士団としてのトリアイナ魔道士団を構成していた七名全員の身柄引き渡しを要求したが、セナート帝国の皇帝シーマは要求を拒否。 その翌日には、ウアイラ以下七名をセナート帝国の筆頭魔道士団であるラブリュス魔道士団へと迎え入れ、新設した第二十四から第三十まで席次に就任したことを皇帝の署名入りで公表した。 世界情勢に大きな影響を及ぼす報は、最優先の速報として報道機関や外交使節によって瞬く間に伝わり、翌日の夕刻にはビタリ王国に滞在するカイトのもとにも届いた。 ヴァルキュリャと連れ立って宿泊しているホテルにほど近いバーで飲んでいたカイトに、その報せを持ってきたのはメーソンリー魔道士団の第六席次に就き、ヴァルキュリャにとっては貴重な友人でもあるエリーゼだった。「わたしって、お酒もからっきし弱いので、お先に失礼しますね……ごゆっくり」 穏やかな笑みで言い残すと、号外として発行される直前の記事を二人に手渡したエリーゼは早々に席を立った。 ヴァルキュリャは飲み干したワイングラスを置くと、ふうと短く吐息を漏らしてから口を開いた。「これでラブリュスは、我がメーソンリーを抜いて世界一の大所帯になりましたね」「聖皇国は引き下
翌日の昼過ぎ。 カイトは滞在するホテルの客室で独り悩んでいた。 トワゾンドール魔道士団のメンバーの中から、ビタリ王国へと派遣することになった二名の魔道士について、カイトは決めかねていた。 客室のドアがノックされたのに応えてカイトが出ると、アルテッツァとセリカが立っていた。「昼食はまだかい?」 アルテッツァがいつもの輝く笑顔を浮かべながら口にした「昼食」という言葉を聞いて、もう昼過ぎなんだと気付いたカイトは、「もう、そんな時間だったんだ」 と頭を掻きながら答えた。「私たちもこれからなんだ、一緒にどうかな?」「うん、ありがとう。そうしよう」 アルテッツァの誘いに応じたカイトを含めた三人は連れ立って、ホテルのほど近くにあるレストランへと移動した。 オリーブオイルを多用する海鮮が中心となった料理がテーブルに並び、三人は白ワインで乾杯した。 ワイングラスを置いたアルテッツァは、探りを入れること無く本題から話を切り出した。「ビタリに派遣する二名について、迷ってるみたいだね」「お見通しだね。うん、その通りだよ」「私とセリカが、このままビタリに残る。という形が最もスムーズな対処だろうけど」 素直に答えたカイトの迷いを解すように、アルテッツァは会話を進めた。「うん。まあ、そうなんだろうけど……正直に言っちゃうと、アルテッツァには出来れば近くにいてもらいたいんだ。わがままなのは分かってるんだけどね」「そうか……うん。安心したよ」 アルテッツァの「安心」という返答が意外だったカイトは、短く「安心?」とだけオウム返しに聞き返した。「孤独を好む指揮官は強いようでいて、実は脆かったりするものだから」「なるほど……確かに、そうかもしれない」「私とセリカ以外で、となれば候補は絞られるんじゃないかな?」 アルテッツァに促される話の流れに逆らわず、カイトは派遣する二名を選ぶ条件について答え始めた。「アバロン卿とクレシーダ卿、そしてチェイサー卿はラペルーズ。アルシオーネ卿とレオーネ卿はペアホース。セナート帝国への警戒を解けない現状で、それぞれのチョークポイントから動いてもらうわけにはいかない。魔範士であるノンノ卿には王都に留まっておいてもらいたい。候補として残るのは……レビン卿とステラ卿」 レビンとステラの名を挙げたカイトに対して、アルテッツァがうな